悲しみよ、ようこそ。
参加していたセミナーで興味深いショップのことが取り上げられていたので、寄ってみることにした。恵比寿で夕方だったので、ケータイのGoogleマップで九十九らーめんを検索し、以前から気になっていたチーズラーメンを食した。それから恵比寿ガーデンプレイス内にあるそのお店へと向かい、クリスマスのイルミネーションがたまらなく感傷を誘うのだが、ウェスティンホテルの前の横断歩道を渡りきったあたりでケータイが震えた。
その日は嫁とキャリーケースに入れた猫と一緒に家を出て、かかりつけの動物病院で別れた。休憩中にメールを確認すると、肺に水がたまっていて、200ccぐらい抜いたとのこと。電話にて状況を確認すると、検査などをして今後の治療方法を検討するとのことで、夕方6時にふたたび迎えにいくとのことだった。肺の水を抜いたせいか、前日よりも楽になったようだと聞いて少し安心した。
現在の私の嫁は、いまから15年前に渋谷区の公団住宅に住んでいて、私がはじめてそこを訪れた時、その猫はすでにいた。それからさかのぼること4年前の夏に、新宿西口の公園で1匹で鳴いていたらしい。現在の私の嫁が当時働いていたデザイン事務所がそのすぐ近所にあり、しばらくはそこで飼うことにしたという。その後、事務所が解散することになり、元社員の何人かの家を経由した後、結局現在の私の嫁が飼うことになったらしい。
それ以来、いつも一緒に暮らしてきた。私はペットを飼ったことがなかったし、おそらく自分とは縁はないのだと思っていた。いつか私たちの住まいに北海道から父が泊まりにきた時に、猫をかわいがる私を見て驚いていた。もうかなりの高齢である。次第に体はやせ、動くことも少なくなっていった。数か月前からは具合が悪くなることも多く、病院通いを続けていた。すでにそれほどよい状態ではないことは、お医者さんに聞かされて分かっていた。だから、残り少ない日々をできるだけ苦痛が少ないように過ごさせてあげたかった。しかし、言葉を話すわけではないから、何をいちばん望んでいるのかは、察することでしかできない。前日は雨だったが、かなり息苦しそうにしていた。しかし、かかりつけの病院はお休みである。次の日は元々は病院に連れていく予定だったのだが、私の仕事の都合がつかず、最近は薬のおかげか状態もそれほど悪くないように思えたので、連れていく日を延ばすことにした。嫁が仕事に行っている間に、私が翌週はじめまでの薬をもらってきた。しかし、やはりつらそうだったので、午前中につれていき、私はそのまま仕事に行くことにした。
午後6時を少しすぎたあたりの恵比寿ガーデンプレイス、ウェスティンホテル前、ケータイのディスプレイには嫁の名前が表示されている。電話に出ると、嫁が「いま話できる?」と前置きをした上で、猫が死んでしまったことを告げた。
そう遠くないうちにこの日が来るだろうとは思っていたし、その日のためのシミュレーションもしてきたはずである。毎年飼っていた子猫のカレンダーを、今年は注文していなかった。しかし、この日だとは思わなかった。朝は具合がよくなっているようで、ちゃんとごはんも食べていたし、トイレもしていた。私の朝食のパンをなめていたので、デジカメで動画を撮影した。その1時間後に動物病院で別れ、それが最後になった。
私と嫁との関係が最悪で、私がほとんど家に帰らないような時も、この猫がいてくれたおかげでなんとかなった。お互いに会話をすることすら難しいような時、猫のお世話の役割分担によって、かろうじて繋がっていた。もういなくなってしまった以上、私がちゃんとやらなければならない。
花を買い、箱の中に敷き詰めた。もう動かなくなった体、その毛を撫で、肉球にふれた。嫁は病院につれていったことについて後悔もあるようだ。しかし、できることをすべてやった。楽しい思い出がたくさんある。私はただ話を聞き、うなづいた。
タクシーで霊園に行き、お坊さんに預けた。線香をあげ、それから植物園を歩いた。どうということのない会話をして、花や木の美しさを語り、ケータイで写真を撮ったりした。近くのお蕎麦屋さんでかなり早い昼食にした。このような当り前な日常の意味の濃さは、おそらく贈り物なのだろう。このような時間をこれから積み重ね、おそらく共に年老いていくのだろう。私は移り気で心がすぐにフラフラしてしまい、そんなところを嫁以外の女性からも咎められたりもするが、たとえそうだとしても、すべてはいい意味でなるようになるしかないのだ。そんな穏やかで重く、厳かだが爽やかな気分だったのだ。嫁はバスではなく歩いて帰りたいというので、そうすることにした。
私が仕事に行っている間に、霊園からお骨が届いた。嫁は私の前では無理に笑おうとしたり平気を装っていたが、仕事の合間に電話した時に、明らかに涙声だったので、私はこんなことではいけないと強く思った。しかし、感情を偽らずに泣きたいなら気がすむまで泣いてしまうのが一番らしいのだ。関連するサイトなども随分見たが、やはりそういうことが書いてあった。私もつらい気持ちになる。いなくなったということがよく理解できない。しかし、嫁のつらさはといえばその比ではないのだ。私がしっかりとどーんと構えていなくてどうするというのだ。強くならなければいけない。
これからこの街で暮らし、また、それ以降も大切なものを守って生きていく。そのために乗り越えなくてはいけない課題がたくさんあり、それにはまだまだ足りない。苦しいとかつらいとかそんなことは言いたくもないし、死にたけりゃ死ねばいいんだ。しかし、生きていくことを選んだのならば、無様に葛藤しながらでも足掻き、求め続けていかなくてはならない。それはけして格好悪いことではなく、それを極めることが美にすらもなりうるということを、道重さゆみが教えてくれた。アイドルにもかかわらず考えついたセクシーワードがアワビという、極度にスッペシャルな存在である。久住小春卒業コメントも、例によってモ(狼)板でのレポートでしか知らないが、素晴らしかった。電車の中でケータイの画面みながら嗚咽しているスーツ姿の男性という、かなり痛い状態に私をできるのは、この人をおいて他にはいないだろう。それはそうとして、松任谷由実ではないが、やはり目に映るすべてのものはメッセージなのだ。
困難が立ちはだかるが、それに対して無様に足掻く。それが生きるということである以上、そうやっていこうじゃないか。嫁と居酒屋で話し、共闘の方向性を話し合った。久しぶりに一緒に遠くへ出かける。目的は私の課題解決のための自己啓発的な行動なのだが、それを知りつつ一緒に行きたいと言ってくれたので、残りの時間は気分転換に費やしたい。弟にも時間が合えば会っておこう。私は妹の結婚式以来1ヶ月ぶりだが、嫁にとっては久しぶりだ。これはきっと天国からのプレゼントに違いない。これからどんどんよいことが増えていく。私の根本的な性分は変わりそうにないが、それでもいいのなら、それがいいのなら、すべては正しく真っ直ぐと続いている。つまりはそういうことなのだろう。
というわけで、楽しみにしてくださっている方々には大変申し訳ないのだが、今週の「今夜もうさちゃんピース」テキスト起こしはちょいとばかり遅れる予定でございます。お許しください。おやさゆみん。
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